アーティストになりたい? ビートルズわかる?

先日、東京ドームほかで来日公演を行なったポール・マッカトニーといえば、言わずと知れたビートルズの元メンバーだが、音楽専門学校で教鞭を取る40代の男性は、同校の新入生のビートルズ認知率に衝撃を受けたという。 男性は、ミュージシャンとして活動するかたわらレコーディング・エンジニアとしても活躍する人物。その知見を買われ、この4月からある音楽専門学校で、音響に関する講座を担当することになった彼は、新入生向けの授業の第1回目の教材としてビートルズをピックアップした。 授業では、当時の機材やレコーディングで使われたテクニックなどを解説したが、男性は反応の薄さにふと“イヤな予感”が頭をよぎった。そこで、「この中でビートルズを知っている人は?」と尋ねると、手を上げたのは20人中2人しかいなかった。 激しいジェネレーションギャップを感じた男性が、授業終了後に生徒たちに「どんな音楽を聞いているのか?」と尋ねると、生徒たちはニコニコ生放送の「生主」と呼ばれる人たちの名前やアニソン歌手の名前をずらずらと挙げたという。 男性は、それを聞いてようやく生徒たちがビートルズを知らなかった理由を理解したものの、生徒たちには、「音楽業界を目指すのであれば、もう少し幅広いジャンルの音楽を聴くように」と指導したのだそう。また生徒の中には「CDを1枚も買ったことがない」という人物もいたそうだ。 音楽専門学校生 ビートルズ認知率は1割、生主が人気 http://yukan-news.ameba.jp/20150507-105/

ザ・ビートルズ(The Beatles)は、イギリス・リヴァプール出身のロック (音楽) ロックバンド (音楽) バンドです。

主に1960年代に活動したロック (音楽) ロックバンド。1962年10月にレコードデビュー、1970年4月に事実上解散(詳細は#解散とその後のメンバーの関係を参照)。と読む。FabはFabulousの略。「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味。これをもじったenThe Fab Faux The Fab Fauxというトリビュートバンドも存在する。また、ロンドンオリンピック (2012年) における体操競技の女子団体総合で金メダルを獲得したアメリカ代表選手(5人)が「The Fab Five」と呼ばれています。という愛称もある『僕はビートルズ』第1巻・巻末に収録された宮永正隆の解説より。。

バンドの活動期間内に母国イギリスで#オリジナルアルバム 12作マジカル・ミステリー・ツアーを当初EP2枚組として発売。詳細は当該作品を参照。のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間1位を獲得した。11作の週間1位獲得合計数は162週enList of number-one albums from the 1960s (UK)およびenList of number-one albums from the 1970s (UK)を参照。。年間売り上げ最高アルバム獲得数4作enList of best-selling albums by year (UK)を参照。と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム) プリーズ・プリーズ・ミー』による連続1位獲得30週enList of number-one albums from the 1960s (UK) List of number-one albums from the 1960s (UK)を参照。はいずれも1960年代の最高数ただし、通算1位獲得数では「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラックの70週と『南太平洋(enSouth Pacific (film) South Pacific)』のサウンドトラックの44週に次ぐ3位。なお『南太平洋』のサウンドトラックは1958年から1959年にかけて70週間連続1位を獲得していて、全英アルバムチャート連続一位獲得数歴代1位となっています。詳細はenList of number-one albums from the 1950s (UK)を参照。。シングルは#オリジナルシングル 22作バンド活動期間である1962年10月の「ラヴ・ミー・ドゥ」から1970年3月の「レット・イット・ビー」まで。発売し、その内17作が1位を獲得。さらにアメリカを初め各国でも高いセールスを記録(詳細は「ビートルズの作品」を参照)し、ギネス世界記録 ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されています。また「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」に於いて第1位に選出されている の記述を参照。また同誌はやを設けています。。本国イギリスでは1965年に外貨獲得に貢献したとしてエリザベス2世から大英帝国勲章 MBE勲章を授与されているザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.181-184。1988年にロックの殿堂入り。活動前期においてはアイドルとして「ビートルマニア」と称される人気を獲得。それに加えて後期には音楽的にも評価されている(#評価と影響 評価と影響を参照)。

「BEATLES」という名称は、ジョンとスチュアート・サトクリフが考えた造語です。ジョンの発言ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.41によれば、この名前を提案したのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名である「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ英語でこおろぎの複数形。その他にスポーツのクリケットの意味があります。にあやかり、同じ昆虫で、同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズBEETLES=かぶと虫の複数形。この綴りの3文字目をAに変えて、言葉を聞くと虫=BEETLESをイメージし、文字を見るとビート・ミュージック=BEATLESとなるようにした。を『乱暴者』マーロン・ブランド主演の映画。ビートルズはバイクを乗り回している女性を指すスラングとして共演者であるリー・マーヴィンの台詞に登場する。から思いついた。しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演の仕事を依頼してきたブライアン・キャスにその名前を嫌われBeetle はかぶとむしだけでなく、コガネムシ、カナブンも含まれ、日本でのかぶとむしのイメージと違い、英米では嫌われている昆虫類(害虫)のひとつでもありました。、出演条件として改名を提案され「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名前が提示された。話し合いの上、お互い譲り合う形で『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と名乗る事になったが、その後ロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗る様になった。ただし同年8月から行われた最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.49に出演者として記載された時点で「The Beatles」となっています。

ビートルズは元々クオリーメンという名称で1957年に結成。それ以降はジョニー&ムーンドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名を繰り返していて、ビートルズと改名するまでに複数のメンバーが入れ替わっている(クオリーメン~シルヴァー・ビートルズ時代については別項クオリーメンを参照のこと)。ビートルズと改名してから在籍したメンバーは通算6名。その内2名は1962年10月5日にシングル「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューする以前にバンドから脱退しています。スチュアート・サトクリフ(enStuart Sutcliffe Stuart Sutcliffe)はベース担当として1960年1月に加入し、1961年に行われた2度目のハンブルク巡業が終わった時にバンドを脱退しています。この後ポールがベースを担当するようになり、バンドは4人編成になる。1962年4月10日、21歳で死去。映画『バック・ビート』は彼を主人公として描写した。ピート・ベスト(enPete Best Pete Best)はドラムス担当として1960年8月に行われた最初のハンブルク巡業の直前に加入し、1962年8月に解雇された。この直後にリンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」からビートルズに加入なお、ジョージ・マーティンは当初リンゴの加入を知らず、アンディ・ホワイト(enAndy White (drummer) Andy White)というドラマーを手配していたので『ラヴ・ミー・ドゥ』では2人のドラマーのテイクが存在し、シングルではリンゴの、アルバムではアンディのバージョンを聴くことができる。。

上記の通り、パーロフォンからレコード・デビューした1962年10月の時点で「ギター×2、ベース、ドラムス」という編成となっています。この編成は1961年に「ギター×3、ベース、ドラムス」という編成で行われた2度目のハンブルク巡業(詳細は#デビューまでの来歴)が終了した時点で、それまでベースを担当していたスチュアート・サトクリフが脱退して4人編成に変わり、ギター担当の1人だったポールがベースに転向した事で確立されたザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.62。さらにデビューの直前である1962年8月にドラムスがピート・ベストからリンゴ・スターに交代し、解散するまでこの編成が続いた。デビューから2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音していたため、原則としてこの編成による一発録りで録音されていたが、ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (アルバム) ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!から4トラックが導入されて多重録音が可能になると、演奏のみのベーシック・トラックとボーカル、リード楽器を別個に録音するといった録音方法が採られる様になるザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233。

中期から後期の作品では、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時に、ジョンがエレクトリックベース ベースを担当する例も存在する「レット・イット・ビー」では、ジョンが6弦ベース(フェンダー・ベースVIを演奏しています。他、1968年のホワイトアルバム録音時におけるリンゴの脱退騒動ビデオ「コンプリート・ビートルズ」より。ただし約一週間で復帰し、当時公にはされなかった。に絡んで「バック・イン・ザ・USSR バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」はポールがドラムセット ドラムスを担当しているこの件とは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスもポールが演奏しています。。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏しています。リードギターは基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当しています。ジョンのリードギターは「ゲット・バック」や、「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは「涙の乗車券」のフェイド・アウトの部分でベースに加えてリードギターを担当。「バック・イン・ザ・USSR バック・イン・ザ U.S.S.R.」やジョージ作による「タックスマン」の間奏部とラスト部分などでもリードギターを弾いています。また「ブラックバード (ビートルズの曲) ブラックバード」などのアコースティック・ギターもポールが担当しています。ちなみに「ジ・エンド (ビートルズの曲) ジ・エンド」の間奏部分はポール、ジョージ、ジョンの順番でギターソロ・リレーを演奏しているポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しの演奏を行っています。。

4人全員がいずれかの曲でボーカルを担当しているが、初期の「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」など、基本的にはジョンとポールの2人がリード・ボーカル(メイン・ボーカル)を担当する曲が多いどちらがメインのメロディーを担当しているかは曲毎のアレンジで異なっています。。ジョージは主に「サムシング」や「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、「タックスマン」等の自作曲でボーカルを担当。リンゴは「イエロー・サブマリン (曲) イエロー・サブマリン」や「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」など、比較的コミカルな曲でボーカルを担当しています。これは両曲のメイン作曲者であるポールが、リンゴにはシリアスな曲は似合わないと考えたためビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーに収録されたインタビューのコメントより。但し「グッド・ナイト」のようなジョン作のシリアスな曲もある。またイエローサブマリンやオクトパス・ガーデンなど、リンゴの歌唱曲は比較的海に関する楽曲が多い。

曲によっては基本編成以外の楽器も使用されていて、メンバー自身が担当した作品と外部の演奏者がセッション参加した作品があります。メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ」から3曲連続でジョンザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.81ビデオ版のザ・ビートルズ・アンソロジーにはジョンがハーモニカを吹いている「ラヴ・ミー・ドゥ」の演奏の記録映像が収録されています。がハーモニカを演奏しています。キーボード (楽器) キーボードは、ポールが「マーサ・マイ・ディア」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」、ジョン作「セクシー・セディー」でピアノを担当しておりポールはジョンと出会った頃からピアノを演奏する事が出来た。詳細は「#デビューまでの来歴」を参照。。またビデオ版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」では「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのイントロのメロトロンをポール自ら演奏しながら解説を行っています。ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などでオルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器を担当していて、また1965年8月15日に開催されたシェイ・スタジアム・コンサートの記録映像では「アイム・ダウン」でヴォックス (楽器メーカー) VOXのオルガンを演奏しています。「ノルウェーの森」から導入されたシタールはジョージが1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接レクチャーを受けているザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233シタールを通じて知ったインド哲学への興味が、ジョージから他のメンバーにも伝わり、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーへの傾倒につながる。詳細は#1966年以降を参照。。また、「ゲッティング・ベター」や「アクロス・ザ・ユニバース アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのツィター ソードマンデルなどもジョージが担当しています。「ヘルター・スケルター」ではジョンがサクソフォーン サックスを演奏しています。モーグ・シンセサイザーはアルバム『アビイ・ロード』においてジョージが導入したザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.340。1969年当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「ビコーズ」でジョージが演奏。ポールも「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏しています。

セッション参加したミュージシャンの例では、まずメジャーデビューに際して、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイト(enAndy White (drummer) Andy White)が、デビュー曲となった「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに参加しています。ただしこれはメンバーの意向ではなくプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるものザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.76。メンバーの自主的な判断による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」で弦楽四重奏団が、「ペニー・レイン」ではピッコロ・トランペット奏者が招かれています。同じロックやポップスの分野では「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でリードギターを弾いているエリック・クラプトンや、「レボリューション (ビートルズの曲) レボリューション」でエレクトリックピアノを弾いているニッキー・ホプキンスが挙げられる。番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏を担当。また、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサクソフォーン サックスで演奏に参加しています。映像記録が残っている例では、アルバム『レット・イット・ビー』のセッションにエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどでビリー・プレストンが参加しています。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。

ビートルズの4人のうち、ポールとリンゴは左利きであるとされています。ポールは自身が左利きだと述べている事ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.20、そして演奏するベース・ギター等が左利き用である事で確認されているが、リンゴは自身のコメントが無く、右利き用のドラムスを叩いていた。ただし映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画) ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」では、川に石を投げる時やカメラの遠隔操作式シャッターを持つ時の手が左です。

ビートルズのオリジナル曲はメンバー自身が作詞作曲を行っています。

オリジナル曲の作詞作曲で最も多いのはジョンとポールの共作クレジットであるレノン=マッカートニーで、ビートルズナンバー213曲テイク数は217。これらは全て2009年にリリースされた『ザ・ビートルズ・BOX』に収録されています。の内、144曲がこの名義になっています。レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆の''マッカートニー=レノン''作品8曲、''Words and Music JOHN LENNON AND PAUL McCARTNEY''が13曲(シングル・カット、シングル収録曲のレノン=マッカトニー名義と重複するものあり)、ジョージの作品22曲、リンゴの作品2曲、レノン=マッカートニーとリンゴの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている現在販売中のCDブックレットに記載のクレジット。。『ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、ジョンとジョージの共作というパターンも存在する。

同クレジット作品は米ビルボード/英ミュージック・ウィークともNo.1になった曲が多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されています。ジョンとポールがどの曲でどの程度の役割を担っているかという公式な記録は無いが、「ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)」P94のポールのコメントによれば、「プリーズ・プリーズ・ミー (曲) プリーズ・プリーズ・ミー」はジョンがメイン、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」はポールがメイン、「フロム・ミー・トゥ・ユー」は半々、と様々なパターンが存在する。また同頁によれば、共同の作者として発表していくことは早い時期から決まっていて、「レノン=マッカートニー」という序列はミーテイングの上で決定した。ただしアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム) プリーズ・プリーズ・ミー』でのみ「マッカートニー=レノン」という表記です。また「イエスタデイ」などポールがメインの作品の場合に「マッカートニー=レノン」という表記を使用する事も考えられたが、実現はしていない。

ビートルズ結成当初から、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」と連名にする約束が取り交わされていた。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に(原題・Give Peace a Chance)」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている)クレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはない(二十数曲程度)という意見に対して、後年ジョン・レノンはインタビューで否定していて、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」で多くの曲が共作であったと言明しています。

1957年3月、ジョンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する(詳細はクオリーメンを参照の事)。同年7月6日、ウールトン(enWoolton Woolton)のセント・ピーターズ教会(enSt. Peter's Church, Woolton, Liverpool St. Peter's Church)が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをポールが観覧。共通の友人であるアイヴァン・ボーンザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.29のジョージの発言によれば、一時期クオリーメンにも在籍していた。の紹介によりジョンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック(enTwenty Flight Rock Twenty Flight Rock女はそれを我慢できない (1956年の映画)の挿入歌。)」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌う。ポールが歌詞を完璧に覚えている事ビデオ盤「ザ・ビートルズ・アンソロジー」より。に加え、トランペットやピアノも演奏出来る事にジョンは感心し、クオリーメンに勧誘。その翌日にポールは参加OKと返答したザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.12,21。翌1958年2月6日、ポールの紹介でジョージがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー(enRaunchy (instrumental) Raunchy)」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くの和音 コードを知っていた事でジョンに認められ、バンドに加わるザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.12。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」とする。1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われベーシストとしてバンドに加入(経緯はスチュアート・サトクリフを参照の事)しかし、当初サトクリフは楽器演奏自体が未経験だったため、構造が簡単な曲から序々に覚えて行った。。同年4月、ジョンとスチュアート・サトクリフによりバンド名をビートルズとする提案がなされるが、ブライアン・キャスが改名を要請(詳細は#バンド名の由来を参照)。その後の交渉により、バンド名が「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」になる同年4月23、24日。ジョンとポールの2人が「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏しています。。

1960年5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガーこの時点ではシンガーそのものは未定だった。のバックバンドを務めるオーディションにエントリー。参加を約束していたドラマーが来られなくなったが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムを担当して合格。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランドにツアーに出る。この時、ジョンは「ロング・ジョン」、ポールは「ポール・ラモーン」、ジョージは「カール・ハリスン」、スチュアート・サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を付けていたザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.44。なお、このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退するこの頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた。交代の度にやめていったドラマーが所有するドラムのパーツの一部が置き土産として手に入り、やがてフルセットに近いドラムセットが組みあがったため、ドラマーのいない時期はポールがドラムスを叩いたこともありました。。8月、アラン・ウィリアムス初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナー。リヴァプールのバンドのハンブルク巡業を手がける興行主でもありました。を通じてドイツ(当時は西ドイツ)のハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、この時点でドラマーがいなかったバンドは新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい「インドラ」というクラブで毎日6~8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、また長時間のステージで演奏も上達した事により、次第に人気を獲得していったザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.47。1か月後「カイザーケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演する事になり、この時にリンゴと知己が生まれる。またこの頃、ピートがステージを休むことが数回あったため、リンゴが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。さらに、この頃アストリット(アストリッド)・キルヒヘル(enAstrid Kirchherr Astrid Kirchherr)写真家。学生時代、ビートルズのハンブルク巡業中に友人となり、数々の写真を撮影。ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58によれば、後にビートルカットと呼ばれる垂れた髪型の提案者で、アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』のジャケットのアイディアの元となった写真の撮影者でもある(ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.107。ただしジャケットの写真そのものはロバート・フリーマンが撮影している)。また、生前のサトクリフと恋愛関係にあり、映画『バック・ビート』ではヒロインとして描かれています。カナ表記は、ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)では本文(p.52その他)で「アストリット」、p.358のCREDITでは「アストリッド」と、両方の表記が存在する。が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後にザ・ビートルズ・アンソロジーなどビートルズに関する文献に収録された。ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上のクラブ「トップテン」からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしていた映画館の出火がきっかけとなってポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。スチュアートだけはアストリットの援助によりしばらくハンブルクに滞在した。

1961年1月、ハンブルクでの失敗でバンド活動を停止していたが、その後アラン・ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーに紹介され、オーディションの上でキャヴァーン・クラブ(enThe Cavern Club The Cavern Club)にレギュラー出演するようになる。またキャヴァーンへのメンバーと楽器を搬送するローディー役としてニール・アスピノール元々はポールとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のジョージとも友人だった。またピート・ベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた。その縁でバン(車)を持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロードマネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をする事になる。が、続いてマル・エヴァンズ(enMal Evans Mal Evans)ビートルズが出演していたenThe Cavern Club キャバーン・クラブのドアマンとして働いていたが、アスピノール1人では仕事が大変なため2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年に死去。が雇われた。同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始。前回で出演依頼があったトップテンで演奏するようになる。このハンブルク巡業では初めてレコード会社によるレコーディングも実現した。詳細は#ハンブルクでのレコーディングを参照。また、再会したアストリットと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に垂れている状態を見て気に入ったアストリットは、垂れたままの髪型にする事を要請。ピート以外の4人がその垂れた髪型を使うようになり、それは後に「ビートルカット」と呼ばれるようになるザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58。

2度目のハンブルク巡業が終わった時点でスチュアートが脱退。アストリットと婚約してハンブルクに残る事になる。ベースがいなくなったため、ポールがギターからベースに担当を替え、後のレコード・デビュー時と同じ編成となった4人組のビートルズが誕生する。帰国後の8月、ジョンの級友だったビル・ハリー(enBill Harry Bill Harry)が音楽新聞「マージービート(enMersey Beat Mersey Beat)」を発刊。ジョンの書いた文章が載るようになる。12月10日、リバプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる(詳細は#ブライアン・エプスタインの功績を参照の事)。このブライアンの売り込みにより、1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるが、不合格となる。その後もビートルズがライブ活動を続ける傍ら、ブライアンが各レコード会社に売り込みを続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し11日からスター・クラブで演奏。しかしその前日のザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.694月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。6月、EMI傘下のパーロフォン・レーベルから、プロデューサーのジョージ・マーティンによるオーディションが打診されています。ビートルズへのジョージ・マーティンの功績は#ジョージ・マーティンの功績 こちらを参照。6月6日に行われたオーディションの後の8月15日、ピート・ベストを解雇詳細はピート・ベスト#解雇劇を参照。。直後にリンゴ・スターが加入。9月からEMIでレコーディング・セッション。この時はリンゴの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加しています。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミス(enNorman Smith (record producer) Norman Smith)は、この後「ラバー・ソウル」までチーフ・エンジニアを務める事になる。

トップテンにはトニー・シェリダンが出演していて、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。6月22、23日、この縁でシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッションを参照)。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売後にビートルズがデビューして人気を得ると、レコード会社は名義を「ザ・ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン」に変えています。。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのボーカルの「いい娘じゃないか」、器楽曲 インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされたこれらは1995年にリリースされた『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収されています。

1962年10月5日にイギリスにてデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を発売。ミュージック・ウィーク誌(enMusic Week Music Week)のトップ50では1962年12月27日付で最高位17位を記録ビデオ版The beatles anthology より。1963年1月11日にリリースされた英国での2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー (曲) プリーズ・プリーズ・ミー」がメロディー・メーカー誌1963年3月2日付けのシングル・トップ50で1位(ミュージック・ウィーク誌は最高位2位その為、後にリリースされたチャート1位シングル曲集であるザ・ビートルズ1には収録されていない。)を獲得。この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3曲目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となるザ・ビートルズ1のジャケットの記述より。。このフロム・ミー・トゥ・ユー以降は「シー・ラヴズ・ユー(8月23日発売/1位6週)」、「抱きしめたい(11月29日発売/1位5週)」とリリースするシングルが連続して1位を獲得したenList of number-one singles from the 1960s (UK) List of number-one singles from the 1960s (UK)を参照。。

一方、アルバムは4月26日、英国でのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム) プリーズ・プリーズ・ミー』がリリースされ、5月11日付けでチャート1位となり、それから30週間連続1位を続けた。また、この記録が更新中だった同年11月22日、セカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表になり、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』と入れ替わる形でチャート1位を獲得、そのまま翌年の5月まで21週間連続1位となる。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム(enSunday Night at the London Palladium Sunday Night at the London Palladium)」に出演。およそ1500万人がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.102-104によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している(このステージでの最後の曲「ツイスト・アンド・シャウト」の直前にジョン・レノンが「安い席の人は拍手を、それ以外の人は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」と観客に言っている)。同じ頃、ビートルマニアと称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細は#批判と公的な抑圧を参照)。しかし、イギリスでの人気に比してアメリカではヒットしなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIのレコードをリリースしていたキャピトル・レコードにアメリカでのリリースを要請したザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.110が、キャピトルはこれを拒否。その為ヴィージェイ・レコードやスワン(enSwan Records Swan Records)などと契約してレコードをリリースしたが、ポールの発言ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーのインタビューのコメントより。などによれば、レコード会社が小さい事もあり、1964年の様な大きなセールスは実現しなかった。その後「ライフ (雑誌) ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」がビートルズを記事にし、ラジオのディスク・ジョッキーがビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方からリリースのオファーがなされる事となったザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.114-115。

1964年1月にフランス公演。その最中にアメリカで「抱きしめたい(キャピトルでリリースした初のシングル)」がシングルチャート1位になったただしビルボードで日付上で1位になったのは2月1日。enList of Hot 100 number-one singles of 1964 (U.S.) List of Hot 100 number-one singles of 1964 (U.S.)を参照。。2月にグループとして初めて渡米し、9日にCBSの「エド・サリヴァン・ショー」に出演。ポールの発言によれば視聴者数は7300万人ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.119となりました。11日にワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演を開催。カーネギー・ホールで2回目の公演を開催した後、16日にマイアミのドービルホテルで2回目のエド・サリヴァン・ショーに出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしているビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーの記録映像より。。4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.139。6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界公演が開催されるが、リンゴが扁桃腺炎に患って入院し、代役としてジミー・ニコル(enJimmie Nicol Jimmie Nicol)が起用されています。その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。アデレードのタウン・ホール(enAdelaide Town Hall Adelaide Town Hall)での公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けているザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.140Vintage Adelaide. pp.70-71。7月6日、イギリスでリチャード・レスター監督本作以降も『ヘルプ!4人はアイドル』の監督を担当。『ジョン・レノン 僕の戦争(enHow I Won the War How I Won the War)』では監督に加えてプロデューサーも兼任し、1991年には『ゲット・バック(enGet Back (film) Get Back)』の監督を担当しています。による映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画) ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」公開。10日にビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (アルバム) 同名映画のサウンドトラックアルバムがリリースされ、「ウィズ・ザ・ビートルズ」を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズのザ・ローリング・ストーンズ (アルバム) ファーストアルバムを7月25日に抜いて1位となり、そこから21週間連続1位を維持した。

この後1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、ボブ・ディランとサウンド・オブ・ミュージック (映画) サウンド・オブ・ミュージックのサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった。またアメリカのビルボードにおいても、「ミート・ザ・ビートルズ Meet The Beatles!(11週連続)」、「ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム The Beatles' Second Album(5週連続)」、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (アルバム) A Hard Day's Night(14週連続)」の3作が1位を獲得しています。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されています。8月からは第2回アメリカ公演旅を行い、34日間、24都市で32公演が開催されています。9月に帰英し「ビートルズ・フォー・セール」を録音。10月からはイギリスで27都市の公演が行われた。12月4日、イギリスで「ビートルズ・フォー・セール」がリリースされた。

1965年2月から映画「ヘルプ!4人はアイドル」の撮影開始。ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画) 前作のドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在する作品となり、今回はカラー映画にもなった。公開は7月。サウンドトラックアルバム「4人はアイドル」は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる(イエスタデイ 当該項目を参照の事)。同月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55600人ただしこの人数には異説があります。ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーではニール・アスピノールが55000人と話しているが、ポールは56000人、リンゴは60000人、ジョージは70000人だと聞いたとコメントしています。の観客を集めた野外コンサート開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月、メンバーにMBE勲章が授与されています。12月、「ラバー・ソウル」リリース。ジョンはこのアルバムについて、ビートルズが音楽的に同時代に影響を及ぼした最初のアルバムだと述べていて、実際に「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。なお、シタールの導入を提案したのはジョージで、ラヴィ・シャンカルの影響であるとコメントしているザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.196。同月、最後のイギリス公演旅行を行う。また、この公演旅行中に、メンバーがコンサート・ツアーを続ける事に疑問を感じて話し合いの場を持っているザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.198-199。1966年3月、ジョンがイギリスのインタビューでキリスト教に関する発言を行う。8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を醸す(詳細は#ジョンのキリスト発言を参照)。4月から「リボルバー」の録音が開始されるザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.206。なお、本作からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。6月からドイツ、日本、フィリピン公演。8月、最後の(ただし最後だという事はメンバー間のみの秘密事項だった)アメリカ公演旅行が開始され、29日のキャンドルスティック・パークで終了した(詳細は#公演旅行の中止とレコーディングアーティストへの変遷を参照)。同月5日、イギリスで「リボルバー (アルバム) リボルバー」がリリースされた。

1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールで、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなったザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.161。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなりました。その代わりに、コンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催されたコンサートの観客人数は55600人に上っています。これは当時としては世界最大の観客動員数で、またビートルズが演奏旅行期間中に開催した全てのコンサートの中でも最大数であるザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.187。1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用されたこの1966年のツアーでもシェイ・スタジアムが使用された。8月29日のビートルズ最後のコンサートもキャンドルスティック・パークという野球場です。。ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いていて、これがビートルズの公演旅行中止の一因となった(詳細は#コンサート・ツアーの停止とレコーディングアーティストへの変遷を参照)。これ以後、野球場での大規模コンサートは一般化していきシェイ・スタジアム自体もその後ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ポリス (バンド) ポリスなどがコンサート会場として使用しています。2009年にシェイ・スタジアムは解体され、その前年である2008年に開催されたビリー・ジョエルのコンサートが最後となりました。なお、このコンサートにはポールがゲスト出演しています。詳細はを参照の事。、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場でのコンサートが開催されて以降、野球場でのコンサートが折に開催されるようになる。また、野球場以外でも1969年のウッドストック・フェスティバル ウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル(enIsle of Wight Festival 1970 Isle of Wight Festival 1970)といった大規模野外コンサートが開催されるようになる。

1965年8月27日に、ビートルズはロサンゼルスのエルヴィス邸へ招かれた。エプスタインとエルヴィスのマネージャーであるパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、自宅周辺には野次馬が集まった。

対面の場では、メンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激したメンバーは呆然としてしまい、エルヴィスが「ずっとそうやって僕を見ているだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待っていたのに」と声をかけたことから、即興演奏が始まった。エルヴィスはベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたといいます。

エルヴィスはビートルズの曲も歌い、「君たちのレコードは全部持っているよ」と言って褒めた。これに対してジョンは「僕はあなたのレコードは1枚も持っていない」と発言したことからその場が凍りついた。これはジョン流の過激なジョークだったのだが、エルヴィスはその発言に気分を害してしまった。ジョンはベトナム戦争にエルヴィスが賛同する姿勢や、エルヴィスのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。エルヴィスがジョンを嫌うようになったのはこれらの事がきっかけであった。エルヴィスは(事実上)ポールやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に取り上げていたが、ジョンの曲は歌っていない。

ジョンはこの発言を反省したためか後日、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)に「エルヴィスがいたからこそ、今の自分がある」と伝えるよう頼んだといいます。しかしエルヴィスはジョンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行った頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われています。

この様に、ジョンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても「成功」したとは言えないものであった。そしてなにより惜しい事は、当時音楽界に於いて最も注目すべきこの会見を録音したテープが存在しないことです。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがエルヴィス側へ気を利かせて、会見内容の録音を一切許可しなかったためです。

「BEATLES」という名称は、ジョンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。

ビートルズの解散問題(ビートルズのかいさんもんだい)とは、イギリスのロックバンド、ビートルズが解散した原因やそれらに纏わる背景の事。

ビートルズの作品(ビートルズのさくひん)は、ビートルズのアルバムおよび出演映画作品の一覧。

本項目ビートルズの曲名一覧では、英国のロックバンド、ザ・ビートルズ (The Beatles) の個々の楽曲をリードヴォーカル別に記載する。 アルバムや映像作品に関しては別項ビートルズの作品を参照。

ビートルズの素晴らしい所は、曲調の豊富さだと思います 曲のテンポ・メロディーの違い を比較する為に、曲名

ビートルズおすすめ教えてください スローテンポで!

ビートルズのファンですが「Get Back」の歌詞の中に気になる部分があります。長年気になっていたのですが真実を知ったらビートルズを嫌いになってしまいそうでそれが悲... こんにちは。 これは音楽を愛する一人、ビートルズを愛する一人の 私が昔聞いた話で、あくまで参考意見として 書かせて下さい。 というか、ビートルズのお好きな質問者さんも、 ご存知のエピソードだと思います。 この曲(歌詞)はその当時のバンド内の状況から、 あえてポールがジョンに向けたメーセージだと されています。 この当時ジョンは、バンドよりもヨーコさんに夢中で バンド崩壊の雰囲気がビートルズのメンバー、並びにスタッフ内に 漂っていました。 実際、片時もヨーコさんと離れないジョンの姿が、映画"Let It Be"の 中にあります。 (後に結局ジョンは、それを選んでしまいましたが) そして、それを危惧したポールがの”もう一度原点に戻って、 やろうよ!!”、get back!! というメッセージに込めました。 ポールはまた、ヨーコさんに関して当時あまりいい印象を 持ってなかったそうです。 東洋から来た不思議な、中性的な人物。 そして、それに うつつをぬかすジョン。 イギリス人であるポールには、ヨーコさんが女性らしい セクシャリティを持った人には思えなかったのでしょう。 ポールは少なからずヨーコさんを、訝しく思っていたのでしょう。 (現在でもポールとヨーコさんの接点は、殆どありません) それが問題の歌詞の部分に、その皮肉が込められてるとか。 で、このポールのメッセージ"Get Back"をへの回答を、 ジョンが"Don't Let Me Down"の中に込めたと、 言われています。 落ち込ませないでくれ こんな感覚は 初めてなんだ 今まで 無かったんだ 彼女は他の誰とも違う 落ち込ませないでくれ Don't let me down!!  ~意訳です~ 実際はポールの願いは”Abbey Road”という最後の アルバムに集約され開花しました。 映画”Let It Be"は当初、アルバム”Get Back"を 作るための作業を記録したものでしたが、アルバム”Get Back"は 失敗に終わり、頓挫しました。 その後再びポールの呼びかけでレコーディングされたのが、 アルバム”Abbey Road”です。 そして、その後映画”Let It Be"のサントラ盤として発表されたのが、 アルバム”Let It Be”です。 以上、参考意見です。 真意は当事者だけがする事でしょうし、昔の 話ですからね。 ビートルズの様なスーパーバンドになると、ちょっとした事が 社会風刺的に捉えられてしまいますが、以外とミュージシャンが 曲を作る時は個人的な日常である事が多いのではないでしょうか。 では、失礼します。

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